名


                      水戸合氣修練道場長 坂谷 康弘

 名は授かるものである。
  まず生まれた時にこうあって欲しいと親の願いがあり、名は付けられる。 また、名はその存在を表すものである。
  だからこそ、名と敵わないことをしてはならない。自分自身を惑わし、ぶらし、偽ることにな り、結局浅い虚像の自分をさらし、何も得するすことが無い。
  最近、ネットサーフィンしていたら、県会長がほとんど直接習っていない師匠の名を書き入れ ているものを見た。師匠とは言い換えれば恩師であり、ある程度の長い時間、卒啄同時的にか かえきれないほどの優れた教えを受け取り、見取り、その後さらにその教えを錬磨修業する人 生の範とする大切な大本となるものである。
  だから、校長先生や理事長先生は触れあう期間が短いために恩師になりづらく、担任の先生が 骨身を削って尽くしてくれ、末長い恩師となるのであろう。だいたい金八先生が金八校長先生 だったら、卒業までの長いスパンを一人一人個別に傾注できないし、特撮ヒーローか水戸黄門 みたいな作りになって、視聴率は期待できないと思う。校長や理事長に名を借りれば、政治的 に楽に物事を進めていけるものかもしれないが、武道は必竟その人自身ためのものであり、武 道に政治は必要ないと教わり、道場訓にも書いてある。憧れや尊敬を持ってやるのであれば、 素直に師匠の教えを全うするものである。また、悪名や売名などは素早く払拭するようにしな ければ、早々近々にその名に自分が穢れ、潰されてしまう。
 今年は巳年。へびは衣を脱ぎ捨て、自ら変える。まず願われた名に、次に現在、未来の名に恥 じることないよう、強く実のある自分に変えていこうではないか。

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