これは、満喫編ではありません。絶望、暗澹編からの再生の物語です。

 ここ数年5月頃に岡山に行っている。毎年、内田先生の進化し続けている技を食らい、いただき、自分なりに必死に高めてきた。昨年は、居酒屋成田屋にも行くことができた。食事もすばらしく、いつも肺腑を満たしていただいてくれた。
 だから、今年も迷い無く行った。
 しかし、行く前に言われた一言。
 「絶望するぜ」
 この重さを真に知ることになった絶望、暗澹たる旅となった。

 「1億個のホワイトピースでパズルを完成させるようなもの」
 内田先生自らがそう言った。
 一つ一つ「違う」、「これも違う」と確認しながら、詰めてゆく。
 合わせという、ピッタリと真に合うピースを丁寧に、確実に探してゆく。
 途方もない、とてつもないことをしている最中だ。
 何故、こんなことを業じているのか?
 完全型化を成し遂げるという思いからだ。
 合氣道は型稽古。
 ならば、100パーセント、型に沿った合氣道を実現させる。
 「痛くも痒くもないのが一教なんだ」
 齋藤先生の言葉通りに進んでゆく。二教、三教、四教、小手返し、四方投げ、組太刀、組杖、剣対杖など、全ての技に透徹、実践し、しかも効く技でなければならない。
 型からの要求を完全に応えるためには、痛みは必要ない。勢いも必要ない。強制も、調整、修正も必要ない。無理など一つも必要ない。薄紙のようにぴたっと合わせて、ついたことすらも分からないまま、相手の行動を、相手の知らないままに導いてゆく。
 ただ一つ、完全な合わせが必要なだけ。
 それが可能になるには、非の打ち所がない完璧な半身、一文字腰が必要だ。半身ができれば、微動だにしない完全静止、動いたことさえも気がつかない、気配を消す入身、転化、転換、変更が可能になる。
 つまり、ヒントの乏しい白の、絶対数が多い1億個のピースが条件で、パズルを完成するということは、完璧な半身のままで、合わせをやりきり、完全な型としての合氣道を行うということになる。
 …できない。
 しかし、
 「一分一厘狂ったら、技にはならんぞよ」
 大先生の言葉のとおり。行いきらなければ、大先生の合氣道とは言えない。
 だから、やりきってない、完成していない技は九分九厘違っていることになる。
 難しい。
 これまでとは格別に難しい。
 いや、超絶に難しい。
 ………
 暗澹たる気分になった。
 さらに、「1億個のパズルが完成して、そこからが技に入る」と言われたら、「簡単にできることにことさら喜んでもいられない」と言われたら、「今、合わせを詰めている真っ直中にいるが、この暗闇の底が見えないんだ」と言われたら。
 何をゴールに、何を褒美に、何を灯りして良いのか。
 悩んだ。
 内田先生の技を食らう度に、型からの要求度の困難さを言葉でなく、身体で知っていってしまい、自分がこれを行う困難さを知ってしまい、うろたえた。1日目よりも、2日目が滅入ってゆく。
 食事は美味しかった。しかし、この悩みから一時でも避けるように味わってしまった。用意していただいた焼酎、泥亀がまさに暗澹の、泥中にひきずり込んでくれた。日本酒のような口当たり。うまい。酒がどんどんと進んだ。
 1日目の梅鶏肉きゅうり、ゴーヤ炒め、讃岐うどん、ごちそうさまでした。
 2日目の焼肉、堪能いたしました。
 まるで、あるマラソンランナーの遺書のような気持ちになってきて、岡山を発った。

 帰ってから、さらに悩んだ。
 希望の光がかすかな、いや絶無とも言える難題を教えてよいか、何よりその難題に取り組み続けるべきか悩んだ。
 このままでも十分楽しいだろう。
 今までの技でも、これからの人生、十分楽しめるだろう。
 この無限ともいえる地獄に、門下生を連れて行ってよいか、悩んだ。
 不意に、合氣道をやらないでいいかという選択肢が浮かんだ。
 が、即座に消えた。
 合氣道以上に、心を満たすものがないと、もう自分の全てが知っている。打ち消す思いが、活を与えてくれた。
 ………知ってしまったことは仕方ない。
 知らなければよかったというちっぽけな財産でもない。どちらかというと知った方が、よりこれからの人生を飽きなく楽しめる。その方がより人生面白い。合氣道につまらないという因子は一糸一塵もない。
 やろう。
 二者択一した。
 「一生進む」か、「一生退く」かの札を突きつけられて、自分の全細胞が「一生進む」を選んだ。
 本当は合っていないのに、似通ったピースを一部だけ合わせて、その部分だけできたとほくそ笑むことを慎み、行者として全うする。
 これは例えば、天体観測愛好家が新しいレンズを与えられて、そのレンズの精度がよすぎて、自分で使いこなせない。使いたいが、使えないというジレンマで身もだえている。しかし、高い精度に合わせられなくても、自分の練度は上げることはできる。練度が上がれば、いつか精度の上昇にもついて行ける。愛好家はそうして空を見上げ、新しいレンズを手に入れる度に小躍りするくらい喜喜として、初めて観た月面からもう一度、見直したいと素直に思うのではないか。何度でも基本から始められ、常に新しい発見がある方がやりがいがあるのではないか。
 この方が、より道楽ではないか、 この方が、より合氣道人ではないか、よりあいきのひとといえるのではないか。
 岡山から、帰って一週間。
 ようやく安寧を得た。

 人に必要なものは、安心立命の境地だ。
 これがあって、道に立ち、自らの運命を知り、不平不満にかまけず、無心に突き進むことができる。
 技をくらうことで、ピース(合わせ)は何なのか、ヒントもたくさんいただいている。
 心に響いたことは、穏やかでないと合わせはできないということ。
 怒りはざらつき、すぐに気配を察せられてしまう。警戒されてしまう。
 穏やかは必須条件だ。
 穏やかに技に取り組んでいるが故に、自分への罵詈雑言、誹謗中傷、侮蔑などにかまっていられない、他者へ引き渡すこともない。
 道にぶれずに立って、少しでも進んでいける。
 そういえば、穏やかさはスーパーサイヤ人になるための条件。戦闘力アップの鍵。
 皆さんと再会する頃には、果たして、果たして…。

 27年5月 久しぶりの満喫編〈了〉。



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