岩間道場、思い出記2

  茨城県岩間。
 合氣道開祖植芝盛平大先生が、戦後修行され、もう一度合氣道を練り直した場所だ。
 戦後なので物資もないなか、配給も受けられず、農業をしながら、合氣道を教えていた。
 岩間にいた弟子は多くいたが、長くは続かなかった。
 それぞれの生活がある。家族がある。
 生きていかなく、養っていかなくてはならない。
 古参の弟子たちも身を寄せていたが、しばらくして帰っていった。
 地元の人もいつでもいつまでも農業を手伝うわけにもいかない。日中はとくに用がある。
 岩間の道場、大先生に仕える者はいなくなった。
 若き、鉄道勤めの齋藤守弘先生を除いて。
 齋藤先生は夜勤勤め明けから、大先生に一日中仕えた。
 「朝訪れると、7つ仕事を伝えられた」
 「昼までに3つほど終えると、新たに4つの仕事を与えられた」
 齋藤先生の述懐である。
 「だから、早くやりおえるにはゆっくりやることを学んだ」
 確実に失敗しないことのほうが大切。このやり方なら確実に進む。後退はしない。
 その仕事の中でも、稽古がある。
 主に剣、そして杖だ。
 稽古は厳しい。
 「打ってこい」
 大先生に言われて、若い齋藤先生がフラフラになるまで打ち込む。大先生は受け、武器技の理合いを深め、高める。合わせ、組太刀、組杖、変化と練り上げられていく。
 夜稽古は体術を行う。納得するまで、とことん一つの技を行う。どんどん技が変化する。
 それが毎日続く。毎日、技が違う。変わる。進む。
 「大先生はコンピュータのようだった」
 齋藤先生の述懐。
 ある時、ほかの弟子が聴いた。
 「昨日と技が違います」
 「技は日進月歩じゃ」と、即答された。 
 剣術、杖術、体術を独立的、かつ総合的に学び、高め、理合い、結びを深めていく。
 「合氣道は武道である」
 大先生の言葉である。そして、齋藤先生の言葉でもある。
 「武道練習」、「武道」という本を出版したこともある。
 「武産合氣。」
 大先生も、齋藤先生もこの言葉が好きだった。
 武道としての合氣道。
 これが、岩間の合氣道。
 護身や格闘ならびにスポーツ、ましてや小さな力のみで効率的にできるなどという安易なものではない。
 「内田は武道として、合氣道をやっている」
 岡山の内田進先生は、内弟子時代に齋藤先生からこう評された。岩間は夜稽古が八時に終わり、八時半までの自由稽古が道場の稽古時間だった。しかし、ほかの外弟子が帰り、ほかの内弟子が飯を食べ、道場に布団を敷いても、隣の六畳間で、内田先生と二人きりで体の変更、諸手取り呼吸法を中心にああでもない、こうでもないと研鑽した。ある程度の得心して夜遅く解散しても、翌日の稽古では更に進んでいて、決まって「それは古い」と言われた。武道の合氣道と、真摯に向き合っていた。まさしく学びの中に没頭して、とても楽しかった。
 「誠をば さらに誠に 練り上げて 顕幽一如の 真諦を知れ」
 大先生の道歌。
 「齋藤先生は俺たちが遅くまで稽古していたのを知っていた。でも、黙って稽古させてくれた」
 内田先生の述懐。
 そして、現在もただひたすら実践している。
 内田先生はこう仰っている。
 「道場がすごいとか、先生がすごいとかじゃねえんだ。何より自分だろ。自分がすごくなきゃだめだろ。先生の名を借りるなよ。自分で稽古して、自分で高めるんだろ」
 武としての技が産み出る合氣道。武道を産む合氣道。
 それは習い、学び、掴み、そして一生稽古して、深み、高めるものだと道場で教わった。

 岩間道場、思い出記2 了

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